2014年11月12日-16日、国際的な舞台芸術フェスティバル「フェスティバル/トーキョー14」の一環で、
ダンスパフォーマンス「春の祭典」が、東京芸術劇場プレイハウスにて行われました。
今回もMATHRAXは、本作品で音楽を担当した作曲家・宮内康乃氏と、
公演に出演した、彼女が主宰する音楽パフォーマンスグループ「つむぎね」の
撮影ディレクションをさせていただきました。
先日、ご紹介した「音楽堂で聴く聲明」の記事に引き続き、
こちらもphotographer KENJI KAGAWAによる撮影です。
(フェスティバル/トーキョー14『春の祭典』 撮影:KENJI KAGAWA)
「春の祭典」は、1913年にイーゴリ・ストラヴィンスキーがロシアバレエ団のために作曲したバレエ音楽です。
音楽の複雑なリズムと不協和音。
そして振付師のニジンスキーによってつけられた奇妙な踊りのために
1913年のパリでの初演は、観客が大ブーイングのスキャンダル的事件だったそうです。
それだけ衝撃的な公演だったのかもしれません。
そして、この曲のテーマでもある「生け贄」。
オリジナルの「春の祭典」の生け贄は、古代ロシアの村の乙女でしたが、
秋に作物の収穫を行うためには乙女の犠牲によって春を終わらせ、夏の神を呼ばなければならない、
という架空の儀式が作品化されているものでした。
また、これまで、数々の歴史上の振付師たちがこの曲に生け贄の踊りをつけてきましたが、
若者、現代女性、ジェンダーの問題を取り上げたものなど、その内容は時代ごとに変化し、
なぜ犠牲は捧げられなければならないのか、という疑問を社会に投げかけるような作品にまでなっていきます。
今回行われた「春の祭典」は、
演出・振付の白神ももこ氏、美術の毛利悠子氏、音楽の宮内康乃氏の女性3人による共作。
今度はいったい誰が、何のために「生け贄」になるのでしょうか…。
公演のはじまりは、つむぎねを中心とした出演者たちの声によって、
一気に別世界へと引き込まれていきました。
▼客席中の宮内氏、出演者の声によって満たされる客席
この公演の構想は、東日本大震災以降の日本をベースにしています。
オリジナルの春の祭典が「古代のロシアの架空のお祭りや儀式」を再構成したように、
振付・演出をされた白神氏も「日本にあったかもしれない架空のお祭り」を表現すべく、
日本各地のお祭りや儀式をリサーチしながら制作されたそうです。
舞台も、被災地跡の風景や東京のゴミの埋め立て地をインスピレーションにして、
「近未来の日本」や「都市鉱山」をイメージした世界が、舞台美術の毛利氏によって構成されました。
ここで、ようやく「春の祭典」の冒頭のファゴットの音が聴こえてきます。
▼舞台は沈下した土地を人工的に埋め立ててできたような、なだらかな斜面
白神氏によれば、リサーチのために立ち入り禁止区域の被災地跡へ訪れた際の光景は、
どこか現実味の無いファンタジーのような印象さえあったと言います。
そんな世界観を体現しているかのような舞台上の鮮やかな照明、衣装のポップな色使い。
そしてどこか懐かしいお祭りのかけ声や踊り…。
私たちが様々な要素に、日本の郷愁を感じているうちに、
日本の神話やおとぎ話の世界へとめくるめく次元が移っていきます。
▼イザナギとイザナミ
第一部から第二部の間には、
真夜中にひっそりと行われる儀式のように、つむぎねによる声のパフォーマンスが始まります。
人の呼吸が続くまでをひとつのルールに、人と人が声とつむいでいくという、
つむぎね独自のパフォーマンス方法です。
まるでこの世界で代々行われてきた儀式のようです…。
以前から、作曲家の宮内氏は「この『春の祭典』の音源の再生中に音はつけられない」と話していました。
では一体どのようにして舞台の音楽をつくるのだろう…?どんなアプローチをするのだろう?と、
実は私たちも撮影直前まで謎に包まれている状態でした。
舞台での音は、特に人々の声によって演出されていましたが、
宮内氏の「音楽と人々の暮らしとコミュニケーション」というテーマが至るところに活きていて、
どこか懐かしいような、それでも新しいような、不思議な感覚を思い起こさせるものでした。
白神氏が舞台全体の演出をする上で、
「毛利氏の舞台美術がこの世界の大自然をつかさどるものだとすれば、宮内氏の音はこの世界の息吹や営み」と
話していたように、舞台に音楽をつけるというよりは、
むしろその音が、この世界に生きているものたちの姿そのものだったように思います。
この公演の舞台である「都市鉱山」にとって、ゴミは重要な役割を果たしています。
舞台上の美術(缶、ビニール、トイレットペーパーなど)もゴミや資源と呼ばれるものからできていましたが、
これらは、私たち人間の言動には直接関与することはない、別の生態系のものとして存在しています。
まれに、人やゴミの発する声や音がぴたりと合うことがあっても、
あえて心を通わせることはなく、何か時空の隔たりのようなものがあることが、逆に印象的でした。
そして、舞台は第2部へと続きます。
第2部は、海外のダンスパフォーマンスとはまったく対局の、
身体の線がまったく見えないもっさりとした姿でのパフォーマンスでした。
しかし、身体の線が見えず言葉などなくても、人の根本的な性質はおのずと見えてきてしまう…という、
身体表現の面白さがより際立つものでした。
時折、春の祭典を聞くと、他の振付師によってつけられた有名なダンスシーンも思い起こすのですが、
白神氏が動きや姿に関してまったく逆の表現をされていたのも粋な試みでした。
舞台の奥にそびえる小高い山。
これは生け贄の世界と現世の境界でした。
この公演では、最終的にすべての人々が山の向こう側へ行き、生け贄になってしまいます。
しかし…一夜にして別の生き物「ニュータイプ」として再生され、こちら側に戻ってくるのです。
まるでゴミ処理場に行ったゴミが、別のものに再生されるように。
白神氏は冊子のインタビューにて、こう語っていました。
ニュータイプたちは、人間のことなど何も知らずに新しい地に住み始め、
コミュニケーションをとりながら、お祭りもして、仲良く暮らしていく、とのこと。
それは、もしかすると近未来でもなく、今自分が生きている状況と変わらないのかもしれないと。
ホワイエに展示されていた毛利氏の概念模型の作品「アーバン・マイニング」。
約3万個の空き缶に流れている電気を自らの養分にしているかのように、
街のイルミネーションたちは飄々とした佇まいで光を灯していました。
▼毛利氏による概念模型の作品「アーバン・マイニング」
彼女たちに制作のお話を聞くと、よくこれだけのこと(要素、テーマ、人数!)を、
一つの形にしたなあと心底関心させられましたが、
この公演自体が、彼女たち自身の感覚に素直な表現をされている分、
私たちも多くの人々と、供に話したり、考えたりする事ができる作品だと思いました。
震災にあわれた方の苦しみ・悲しみは、おそらく想像を絶するものでしょう。
また、直接大きな被害にあっていない方でも、もっと苦しみを分かち合えれば…という焦りや
自身では気づいていない心労などもあると思います。
この公演は、少しでもそのような気持ちを、自分の外へ導き出してくれるような、
そんな時間だったと思います。
最後に、今回の撮影に関して多大なるご協力をいただきました宮内氏、白神氏、毛利氏、つむぎねの皆さん、
そしてフェスティバル/トーキョー14「春の祭典」の出演者の皆さま、スタッフの皆さま、
及び関係者の皆さまに重ねて御礼申し上げます。
また、いつも撮影の内容をきちんと理解しようと努めてくれ、
素晴らしい世界をとらえてくれるKENJI KAGAWAにも多大なる感謝を…!
MATHRAX
追記:
この「春の祭典」の公演の数日前には、「学びのアトリエ」という関連イベントも無料で開催されていました。
湯山玲子氏、渡邊未帆氏のトークによる春の祭典の基礎知識講座では、
貴重な資料映像で「生け贄」の変遷をしっかりと予習できたりと、
公演への興味が一層深まる嬉しい企画でした。
このような取り組みもすばらしいイベントだったと思います。