2019年の夏に、茅ヶ崎市美術館で開催された展覧会「美術館まで(から)つづく道」に出展した作品「うつしおみ」について紹介しています。

作品「うつしおみ」を体験する盲導犬ユーザーの小倉さんと盲導犬のブリス

この展覧会では、普段、美術館へのアクセスが難しいと思われる人々(視覚や聴覚に障がいのある方、小さな子供連れの方、車椅子の方)と作家が共に「茅ヶ崎の道」を歩き、その経験から得たものを出発点として作品制作と発表を行いました。

関連記事:「美術館まで(から)つづく道」にいたる道

MATHRAX〔久世祥三+坂本茉里子〕は、視覚障害を持ち盲導犬ユーザーである小倉慶子さんとそのパートナーである盲導犬のリルハちゃん、そして資生堂で香料開発に関わる研究員の稲場香織さんと茅ヶ崎の道を歩き、「うつしおみ」という体験型の作品を制作しました。
それは、触感や音、光、香りがめくるめく変容する空間を、自らの手によってめぐる「ひとつづきの道」のインスタレーションです。

MATHRAX〔久世祥三+坂本茉里子〕

うつしおみ

制作協力:小倉 慶子(盲導犬ユーザー)、リルハ&ブリス(盲導犬)、稲場 香織(香料開発)

うつしおみの全景
木のオブジェに触れる様子
空間の色が変わっていく様子

触感に導かれて道を進むとオブジェの形が動物になっていく
やがて動物ももとの形に変容してゆき「ひとつづきの道」は円環する

うつしおみのキツネに触れる手

うつしおみ movie




作品のテーマを見つけた茅ヶ崎でのフィールドワーク

関連記事:「美術館まで(から)つづく道」視覚の感覚特性者と盲導犬と歩くフィールドワーク〈3〉

視覚障害を持ち、盲導犬ユーザーでもある小倉さんとそのパートナーである盲導犬のリルハちゃんと一緒に茅ヶ崎の道を歩いた時、彼らは楽しそうに、私たちが追いつけないくらいのスピードで軽快に道を歩きました。車がすぐそばを走り、電柱や縁石、お店の看板なども点在している道で、私たちが彼らを追って走ることになろうとは、全く想像できないことでした。

小倉さんとリルハちゃんの歩みを見ていると、「身体が少しでも傾けば、とたんに落ちてしまうであろう細い一本の綱」を何も恐れることなく軽やかに渡っていくようにも見えました。常に統制のとれた完璧なバランスと潔さに、私たちは思わず目を奪われていることに気づきます。

やっと追いついた小倉さんに「どうしてそんなに早く歩けるの?」と聞いてみると、「リルハの推進力がそうさせるの」「リルハもたくさんの人と一緒に歩いて楽しそうだったのよ」と教えてくれました。

私たちは二人の歩みから「誰かと歩く時に生まれるリズム感」やその時の「空気感」がどのように生まれるのか、その現象やしくみについて興味を持ちます。

そして、誰もが参加でき、生と死の境目を軽やかに進むような身体のフロー体験(※)がある「ひとつづきの道」を作ろうと試みました。

※ある活動に対して、挑戦や楽しみを含む心理的エネルギーがうまく流れ、深く没入する状態

制作前に撮影した「指で一本線を歩く」イメージの写真.
小倉さんとリルハちゃんの関係性を見立てた相似形として

指が一本の線の上を歩くイメージの写真

小倉さんとリルハちゃんの歩みによって生まれた「空気感」や「現象」を、体験者自身が体験するためには、二人の関係性を縮図化し、作品においても機能する形に置き換えていく必要がありました。私たちは、そのミニマムな形を「自分の手〈触感〉を使いながら歩くこと」と仮定してみることにしました。

体験者が「手や指でオブジェに触れ続けて音を奏でる」というようなミッションに挑戦している時、体験者は自己間のコミュニケーションを行います。その時、体験者の意識は、触感を使い、指で歩くサイズになった「わたし」と、その指の存在を見守ったり内観する「わたし」の間を行き来します。それは小倉さんとリルハちゃんが道を歩く時の関係性とも相似しています。

二人の関係性を縮図化したメモ

「うつしおみ」の空間では、私たちが自分でもあり自分でないものの感覚を想像することによって、音、光、香りのイメージも常に新しく姿を変えていきます。これは、私たちが様々な人と茅ヶ崎を歩いた経験からも感じたことでした。

私たちはフロー体験の中において意識が主観と客観の遷移を行う場こそ、人が新しい世界を見出すきっかけを与えてくれると考えています。この経験はただの個人のファンタジーに終わることなく、他者を想像し、容認し、別の誰かを触発することにもつながっていくでしょう。

仕様

今回扱った感覚の要素には、それぞれにグラデーションの変化と「ひとつづきの道」の中で円環する構造を用いました。

 :触れるオブジェの形状や質感の変化
 :音階と倍音構造の変化
 :1日の光の色の変化
 :光の明度の変化を表現した
   「日陰(暗い)」「こもれび(中庸)」「草いきれ(明るい)」の香りが場所に応じて香る
 

「うつしおみ」の名前の由来

「うつしおみ」という言葉は、「現し身(うつしみ)」という言葉が語源と考えられていますが、「今、この世に生きている人」という意味を持ちます。

また「うつしみ」の後に付く「おみ(臣)」には、誰かに仕える者という意味があり、今回の制作に協力いただいた盲導犬とユーザーの関係性を想起させたり、世の中に生きて働く人、人間の精神と身体など、常にお互いが影響を及ぼし合っているつながりも連想させました。

ただ、彼らの歩みを見た後、その言葉に「今、この瞬間を生きている人」という前向きなイメージが湧いてくるようになりました。

誰もが、今その瞬間を生きている時間においては、自由と創造性に祝福されるということを、私たち自身も作品制作を通して心に留めておきたいと考えています。

左からMATHRAXの久世祥三・坂本茉里子、
稲場香織(香料開発)、小倉慶子(盲導犬ユーザー)、ブリス(盲導犬)

左からMATHRAXの久世祥三・坂本茉里子、稲場香織(香料開発)、小倉慶子(盲導犬ユーザー)、ブリス(盲導犬)
謝辞

このプロジェクトは、普段の制作に加えてさらに多くの課題や問題を考慮しなければならず、本当に難しい挑戦でした。その中の課題の一つに、私たちにとっての「インクルーシブ」の本質とは何かを考える必要がありました。それは、自分ではない他者を想像し、その者になろうとしてみる姿勢のことでした。

誰もがその人特有の感覚特性を持った個であり、隔てられることのないグラデーションの中にいるのだと、コラボレーターの小倉さん、リルハちゃん、ブリスちゃん、稲場さんに教えていただきました。それぞれの新しい世界の視野を得られたことはもちろん、生きていくための力をもらった気がしています。

2019年4月、盲導犬のリルハちゃんが6才の若さで急逝し、一同、一人のメンバーを失った悲しみに暮れました。盲導犬ユーザーの小倉さんにとっても大変な時期だったと思いますが、制作の渦中にあった私たちに心配をかけないよういつも気遣ってくれました。
リルハちゃんもきっとまだそばにいるはず、作品を最後まで作り上げよう!とチームで連絡を取り合い、その存在を感じながら制作したことがこの作品の最終的な方向性を決めていったのだと感じています。
リルハちゃん、一緒に過ごした素晴らしい時間をありがとう!


メイキングの情報はあまりにも膨大で、このページで伝えきれないこともたくさんあるのですが、まずは制作のためのリサーチや手助けをしてくださった方、展覧会に足を運んでくださった皆さまに心より感謝いたします。
また、この場を借りて、お力添えをいただいた関係者の皆さまにも御礼申し上げます。

うつしおみ

制作年:2019
素 材:木、電子部品、LED照明、香料
サイズ:可変
展 示:茅ヶ崎市美術館(展示室2)
制 作:MATHRAX〔久世祥三+坂本茉里子〕
協 力:小倉慶子(盲導犬ユーザー)リルハ&ブリス(盲導犬)
    稲場香織(香料開発/資生堂グローバルイノベーションセンター 香料開発グループ研究員)
    イヌイットファニチュア、ピッコラくらぶの皆さん、安原理恵、町田倫子
写 真:kenji kagawa
モデル:Natsumi Kato



展覧会の様子はこちらからもどうぞ。

▶︎ 展覧会「美術館まで(から)つづく道」作品編(2019年7月14日〜9月1日)
▶︎ 展覧会「美術館まで(から)つづく道」会場の様子編
▶︎ 展覧会「美術館まで(から)つづく道」映像編


MATHRAX